日本の自動車産業の歴史
日本で初めて作った自動車は東京自動車製作所のタクリー号1907年(明治40年)でした。
タクリー号1907年(明治40年)
その後様々な企業が自動車の生産を手掛けたが成功はしなかった。
大正期の終わりにはフォード、GMの進出によって、これらのアメリカ企業に自動車の市場が独占されるような状況になっていった。
日本では自動車市場が育っていなかったことやベルトコンベア方式の大量生産の技術がなかったことが自動車産業が伸び悩んだ主な原因であった。
そのような状況の中、実質的にこれらの外国企業を排除する自動車製造事業法1936年(昭和11年)が作られた。これによって国産自動車産業の崩壊はまぬがれたが、当時は軍国主義時代であり、この法律は軍事目的の軍用トラックの生産を目的に自動車産業を存続させる目的でもあった。
これ以後は自動車の生産は終戦までトラックが中心となっていき、それは終戦後の1951年(昭和26年)の講和独立まで続いた。
戦後から講和独立までの期間は連合軍総司令部GHQの自動車生産の禁止があり経済復興の手段としてのトラックの生産に限られていた。
その後は多くの軍需産業が自動車産業へと変わり、軍需産業から優れた技術者が自動車業界へ流入し、日本の自動車産業は1960年代の急成長から1970年代にはアメリカ、西欧、と勢力を3分する勢力にまで成長した。
その背景には占領下時にアメリカのGM、フォード、クライスラーの進出がなかったことや経済の高度成長があり乗用車の国内市場が急速に成長したなどがあった。
自動車産業における労働生産性と品質も次第に欧米の水準を超えるようになり、1967年には西ドイツを抜いて世界第2位の自動車生産国になり、1974年には世界第1位の自動車輸出国になった。
さらに1973年のオイルショックでは日本車の経済性をを再認識させることになり、その世界市場における市場占有率はさらに拡大し、その結果、欧米との自動車輸出による摩擦が生じるようにもなった。