立川飛行機からプリンス自動車へ
1945年の敗戦によって、名機「隼」などを生み出した立川飛行機はその施設の多くを米軍によって接収されジュラルミン制の食器、ロッカー、テーブルなどを作って米軍に納入していた。
やがて米軍からは軍用ジープや乗用車などの自動車の修理が発注されるようになり、それらが主力となった。一方でオオタを作っていた高速機関工業の下請けとなり、飛行機の材料を利用してオオタのボディー制作をしながら、米軍の自動車修理を研究材料とし自動車の研究を始めていた。
立川飛行機は敗戦の年の1945年12月に自動車の研究を始めたが、当時は燃料不足であり、ガソリン車を走らせるような状況ではなかったため、電気自動車を開発し1947年8月から販売された。
1947年 電気自動車 たま E4S 47
この間に立川飛行機の施設は全て米軍に接収され、米軍の命令による仕事以外を続けることが難しい状況になり、自動車部門を立川飛行機から切り離し、1947年に6月に東京電気自動車として独立させた。
東京電気自動車は工場を府中に置いたことから、その所在地にちなんで電気自動車を「ため」と名付けた。その後社名を車名の「たま」からとって1949年11月にたま電気自動車に変更して、三鷹に工場を買収した。
その後、1950年に始まった朝鮮戦争により国内の状況が一変することになり、電気自動車が衰退することになった。衰退の原因では米軍の軍需資材の買い占めによりバッテリーの材料である鉛価格の高騰(10倍近く)や統制されていたガソリンが大量に放出されるようになり、ガソリン自動車が普及し始めたことがある。
「たま」は発売当初45万円くらいで販売されていてバッテリー価格が50万近くまで跳ね上がる状況では生産販売を続けることは困難なため、1950年に生産が中止され、ガソリン乗用車の研究をすることとなった。
たま自動車はエンジンを製造する設備は持っていなかったため、エンジン製造を引き受けてくれる外注先を地理的にも近かった旧中島飛行機の富士精密に依頼することになった。
こうして、1951年11月にはトラック、1952年には2月には1500cc(当時の小型車規格の上限)のエンジンを搭載したAISH型が共にプリンスの名を与えられ発売され、1952年11がつには社名を製品名からとり、プリンス自動車工業に変更した。
1952年 プリンスセダン AISH-Ⅰ
この間に両社はブリジストンから支援を受けていて同一資本による兄弟会社となっていて、早くから合併の話が進められていた。資本金の大きい富士精密がプリンス自動車を吸収合併し販売部門を独立させて1952年2月にプリンス自動車販売を発足させ、同年4月には新しい富士精密が発足した。この合併により旧中島飛行機グループの富士精密は富士重工とは別の道を歩みだすことになった。
その後、車名から名前をとり1961年2月に社名をプリンス自動車工業に変更した。1960年代半ばになると外国から市場開放により通産省主導のもとに自動車業界再編が進められ1966年にプリンス自動車工業は日産に吸収合併されることになり、プリンスの名が消えることになる。