木炭車の始まり

木炭車は日本では第二次世界大戦の戦時中から戦後まもなくに石油不足から使われていたが、その構想の始まりはヨーロッパが主な戦場になった第一次世界大戦中になる。

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車体後部にガス発生炉を積んだ木炭車

第一次世界大戦はそれまでの戦争における戦い方を一変させた。第一次世界大戦までは馬に乗って突撃のような戦術などが主であったが、機関銃や毒ガスなど重火器が登場し大量殺りくが可能な武器が登場し、塹壕を長い区間に掘るなどしての戦い方になり、その後自動車の技術を発展させた戦車は塹壕を乗り越えて進むことが出来、第一次世界大戦の始まったころと大戦末期には戦い方が変化していった。

戦車や潜水艦、飛行機にいたるこれらの武器には燃料の石油の供給が重要になり、石油は重要な戦略物資となった。そのため、戦後ヨーロッパ各国では自動車用のガス発生炉の研究がされた。フランス人のパーカーは大戦中から研究を続け1917年にイギリスで特許を取っている。

日本ではイギリスから取り寄せた木炭ガス発生炉をもとに木炭、コークス、文化炭などを経て薪を燃料とするガス発生炉を陸軍自動車学校の技師である三木が完成させた。これより前に東京高等工業学校の浅川が、そして浅川の助手である白土も浅川とは別にガス発生炉を完成させている。

三木のものは陸軍三木式のちの陸式薪瓦斯発生炉、浅川のものは浅川式木炭瓦斯発生炉、白土のものは白土式瓦斯発生炉とそれぞれ呼ばれた。

昭和9年に商工省は瓦斯発生炉設置奨励金交付規則を公布したが、瓦斯発生炉を搭載した車両の台数は伸びなかったが、昭和12年から始まる中国との戦争を期にアメリカからの経済制裁があり石油の輸入が困難になった状況から、石油消費規制がされるようになった。

昭和16年8月にはアメリカ、イギリスからの対日石油禁輸措置により、輸入が停止され、同年9月には旅客自動車のガソリンの使用が禁止された。これにより、バス、タクシー、ハイヤー、自家用乗用車は全て代用燃料でしか運行できなくなった。代用の燃料にはアルコール、薪、木炭、圧縮ガス、液化ガスなど様々あるが、実際には木炭(約70%)と薪(約20%)が多く使われていた。

木炭車はガソリン車に比べて馬力が少なく、ガス発生炉設置でエンジンの燃料となるガスを発生してからエンジンを始動させるため始動性が悪い、それでも木炭乗り合いバスでは平地で60km位の速度で走ることが出来た。

木炭車はではガスを発生させるため、一酸化炭素中毒の危険があり、停車中に窓を閉めている間に、一酸化炭素中毒になり、死亡する事故があった。

戦後間もなくに一時期にガソリン車と木炭車が石油不足から共存する時代があったがガソリンの供給が復活すると木炭車は消えていった。

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