円タク
戦前の昭和初期に東京市内ならどこまで行っても乗車料金が1円の円タクと呼ばれたタクシーが走っていた。
銀座で客待ちをする円タク
円タクが登場した背景には当時の時代背景と東京市内の交通状況があった。
関東大震災1923年(大正12年)以後、東京市バスの運行が開始され、市内の交通網は整備されていったが、1929年(昭和4)年のアメリカの株価大暴落から始まった世界恐慌により、市内の各交通網の収入は大きく減少した。
1932年(昭和7年)中国に日本軍の傀儡国家、満州国を建国するなどして、大陸への侵略を進めていく中で景気が上向き、市内の各交通網の収入も上昇していった。
当時は交通機関への参入規制などの交通行政が確立していないため、多くの民間バス会社と市電、市バスの間で客の取り合い続けられた。この状況の中、昭和に入り、市内のタクシーの台数が大きく増加したため、タクシーを巻き込んだ競争の激化があった。
関東大震災後、タクシーには料金メーターが導入されたが、激しい客の取り合い競争の中、運賃の値下げ競争もあり、どこまで行っても乗車料金が1円の円タクが登場した。
大正の初め頃には市内で200台くらいであったタクシーの台数が昭和に入って急激に増えた背景には、日本フォードや日本GMが販売に力を入れたことがあった。その結果、自動車の保有台数は増えたがそのほとんどはタクシーやハイヤーであったことから、昭和に入ると、その台数は1万台を超えるまでになった。
また、関東大震災の住宅密集地での大規模火災を嫌い東京市近郊へ移住があり、市内の交通需要の減少そたことも競争激化の原因の一つであった。競争の激化を緩和するため、市バスを含めたバス会社間で路線の運行協定をして競合路線の調整をしていたが、タクシー業界はそれに含まれず、バス会社の最大のライバルになっていた。